『稲盛式経営のポイントは、フィロソフィ(企業哲学)とアメーバ経営。
一言でいえば、それはまるで軍隊であった。
京セラの内部告発本『京セラ 悪の経営術』(瀧本忠夫/イーストプレス/1999年)に、その実態が明らかにされている。
「京セラは、おそらく日本の企業の中で、従業員が定年前に退職していく率のかなり高い会社であると私は思う。(略)過去には40人入った社員が翌月には全員辞めてしまったことがある」(同書)
稲盛の人生論『生き方』もワンマン経営者ならではの、危うい文言が目立つ。
「欲、すなわち私心を抑えることは、利他の心に近づくことです。この自分よりも他者の利を優先するという心は、人間の持つすべての徳の上で特上、最善のものである」(同書154ページ)
強い「思い」と「利他の心」があれば、「仕事」を通じて人生の喜びが得られる……これは会社に自分を捧げる社畜になれば幸せになれる、というブラック企業の論理そのものだ。しかも、「生き方」というタイトルにもかかわらず、その内容は仕事のことばかり。人生哲学を語っているようで、その実、企業哲学を語り、企業の論理を読者に押し付ける一方なのだ。
稲盛が厄介なのは、臨済宗妙心寺派円福寺にて在家得度をしており、仏法の教えに基づいているように見えることだ。ブラック企業の論理も東洋思想という袈裟でくるまれれば、ありがたく見えてしまう。』
仏教と言えば、現在では「葬式仏教」として成り立っている。
その昔は、葬式は部落で行い、お坊さんが来て供養をするというようなことはなかったようだ。
お坊さんの役目は、仏教の教えに基づいて、人生の生き方を説いた。
もちろん、武士といえども宮仕えのサラリーマンと同様である。
どのように上司に仕え、家庭生活をよりよく生きるための方法を教えてくれたのが、その昔のお坊さんの役目であった。
そのために、お坊さんは信者からのお布施で生活ができたわけである。
私の好きな言葉は「利他の精神」である。
人間の本性は、利己であり、自己中心的であると思う。
「利他」とは、「利益を他人に与える」という意味だ。
そして「利己」は、「利益を自分にいただく」という意味である。
人間の成長は、利己から利他へと考え方が変わっていくところにあると思う。
だから、少しずつ他人のことも考えられるように成長していきたいと思う。
しかし、その哲学が、自分に向くのではなく、他人に強要するようでは、間違っていると思う。
しかも、経営者のトップが、企業経営の武器として「仏法哲学」を利用することは、危険である。
瀧本忠夫氏のように、稲盛氏が悪人であるようには思っていないが、カリスマ経営者として神のような存在になっていくことは、否定できない。
もっとも警戒しなければならないのは、ポスト稲盛をねらう者達が間違いを起こす可能性を否定できない。
私の実家は曹洞宗である。臨済宗も含めて、禅宗と言われている。
禅宗は座禅を組んで瞑想し、宇宙の森羅万象から悟りを開く宗教である。
仏像を拝んだり、曼荼羅を拝んだりしないで、自ら悟りを開くのであるから、非常に難しい宗派である。
禅宗の開祖の達磨大師は、悟りを開くのに足がすり切れて無くなるまで座禅を組んで修行をしたという伝説がある。
禅宗で悟りを開くには、釈迦の教えを聞いて悟りを開くのではなく、自分の頭で考えて悟りを開くので、相当に頭が良くないと成仏できない。
と言うことで、稲盛哲学は、相当に難しいと思う。
仏教の教えを経営哲学の根幹におき、それを利用して、毎朝朝礼等で、洗脳を受ければ、盲信する社員も出てくるだろう。
私の後輩に、京セラで研修センターに配属になった男がいる。
彼の仕事は、新人から中堅、はたまた幹部候補生のための研修会を企画することだ。
たった三名の人員で行っていると言っていた。まさにアメーバ経営だ。
彼は、京セラの女子駅伝部のカリスマ指導者の大森国男氏の元で、コーチを務めていた者だ。
彼が転勤の挨拶に訪れた時に「稲盛哲学」のことを私に説明しようとしたが、私に叱責されて、それ以来音沙汰がない。
稲盛氏については、まえまえから興味は持っていた。
京セラがバブル期に他社が不動産投資に走っていた時に、本業だけをこつこつとやり続け、バブ崩壊後に次々と上場会社が倒産していく時にも、しっかりと売り上げを伸ばしていた企業だ。
世話になった大森国男氏を稲盛氏が埼玉栄から引き抜いた時から注目していた会社だ。
埼玉栄は、佐藤栄太郎氏が率いる「佐藤栄学園」の一つのスポーツ学校だ。
京セラがブラック企業だとは決して思わない。
ただ、宗教とは怖いものだ。
使い方の方向を間違うと、人々を不幸な道に導いてしまうものだ。
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