千葉県の中学校の陸上競技の指導者で、私の名前を知らないものはいなかった。
ずっと昔の話である。
私が30歳前後の血気盛んな頃の自慢話である。
中学陸上の指導で、女子だけの点数で県通信大会の男女総合の部で5連覇した指導者は過去にいなかった。
そして、千葉県で初めての中学女子100mで全国一位の選手を育てたのも私である。
その選手を埼玉県の私立高校に進学させたことで、千葉県の国体強化の上層部からにらまれてしまった。
私にとって国体強化は関係なかった。
自分の教え子を誰に預けたら、より伸びるかが大事だった。
自分が信じる日本一の指導者に、大事な教え子を預けたい。
ただそれだけだった。
しかしながらそのことで、千葉県の国体強化部から5年間干されてしまった。
干されたと云っても、実害があったわけではない。
「平沼記念章」というその年に県内で一番活躍した指導者に、日本陸連から表彰される者に推薦されなかっただけである。
私は、その5年間は毎年のように日本一の選手を育て、学校が変わっても県の総合優勝を成し遂げていた。
私よりも指導実績をあげた指導者は、いなかったはずだった。
また、その5年間は私の大学の先輩が県の委員長として、一人で中学校の県の陸上大会と全国大会の出場選手達をまとめていた。そのこともあって、私は県の強化の仕事をボランティアで手伝っていた。
後に、中学校の陸上強化部を作り、初代の強化部長になった。
毎年、自分の学校に千葉県の陸上指導者を集めて、自主的に陸上指導の研究会を開催していた。
毎回150名ぐらいの陸上指導者が参加した。
そのこともあってか、他県から千葉県の国体指導陣に、千葉県の平沼記念章の人選はおかしいとクレームがあったようだ。
その年に、私がようやく推薦されて、めでたく日本陸連から平沼記念章を頂くことができた。
平成2年の10月8日の事だった。今から27年前である。37歳になっていた。
『あなたが 我が国青少年陸上競技の指導者として つくされた功績は 誠に偉大であります
ここに平沼記念章をおくり 永くその功績をたたえます』
これが、私のたった一つの勲章である。
教師も早期退職してしまったし、管理職にもなれなかったし、他に誇れるものは何もない。
ただ、好きで部活動指導にのめり込んでいただけだった。
この記念章の中の一文の「あなたが我が国青少年陸上競技の指導者としてつくされた功績」と云うのが、胸にジーンとくる。
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