質問5 『.田舎の休耕田を利用して自給自足すればいいのでは!?(09-12-17)』

『今回も多摩川在住15年の長明が担当します。
何も東京のど真ん中の河川敷で自給自足をしなくたって、 休耕田をただで貸してくれるところなんて
今ではどこにでもあるわけだから、
そこに行ってやればいいとのご意見ですね。
ごもっともだと思います。
私もそれでできないかと考えたことはありました。
私は東京という土地でそれをできているわけですから、 田舎へ行ってやるのはとても簡単に見えるかもしれません。
まして、私は東京では路上生活者。
田舎に行けば、ただで田畑や家を貸してくれるところもある。
そちらへ行けば、私も都合が良さそうです。
ですが、そこがなかなか難しい。
私には大都市の中でこの生活をしている意味があるのです。
人が田舎で自給的な暮らしをする際に、問題点が3つあります。
1.現金収入をどうするか。
2.運転免許証をどうするか。
3.田舎が求めている人材とはどんなものか。
この3点についてお話したいと思います。
まず、何が一番の問題かと言うと、
やはり現金収入です。

私は、現在、路上に落ちている非鉄金属、つまりアルミニウムや銅などを採集し、いくばくかの現金を得ています。
それらが何もない田舎ではできない。
私が現在、現金を得ている仕事は やはり都市という場所での、独特な生業なのです。
せっかく田んぼがあるんだから、それだけで生計を立てればいいじゃないかとおっしゃるかもしれません。
私の家族は、田んぼや畑で自給自足のような生活をしていたからわかるのですが、 一人の人間が、田畑だけで日々の食事をまかない現金収入を得ようと思ったら、 現在では最低でも三反分、つまり900坪の土地が必要です。
さすがに、そこまでただで貸してくれるところは、なかなかないでしょう。
しかも、私は今68歳。
年齢的に見ても、田畑だけで現金収入を得る肉体労働には耐えられません。
ですから、農業のほかに手っ取り早く現金を得る方法を考えなくてはいけません。
しかし、農作物の生産・販売や、田舎にある「まっとうな」仕事で現金収入を得るために絶対必要なものを私は持っていないのです。
「運転免許証」です。
都市では車なんていらないですけど、 地方ではそうはいかないのです。
車がないと、作った作物を売りに行くこともできません。
こまごまとした仕事をこなしに行くこともできません。
免許証がない、これが二つめの大きな問題です。
じゃあ、田舎に住んでいる人は
みんながみんな車を持っているのか、とおっしゃるかもしれません。
近隣の人に同乗させていただくという手だって
もちろんあります。
人の好意に甘えさせていただく、ということですね。
ここで考えなくてはならないのは、
どうして地方の自治体が、休耕田を無償で貸してくれたり
住宅手当を用意してくれたりして、都会から人を迎え入れようとしているのか
ということです。
地方の人が休耕田を無償で貸すというのは、 何もすべての人に土地を分け与えたいと考えているのではなく、やはり後継者が欲しいというのが、 一番の理由だと思います。
だから、若い人にはしっかりと協力するでしょう。
車なんかなくたって、いくらでも手伝ってくれると思います。
しかし、68歳の老人にはどうでしょう。
協力をしたとしても後がない。子どももいない。
なかなかそういう人は、求められていないと思います。
何年かたって、私が働けなくなって介護が必要になったら地域の負担が増えるだけです。
だから、当然のことながら冷遇されてしまうでしょう。
田舎に行って、周りの人々にやっかいになって冷遇されるよりは、私は都市で路上生活者として冷遇されていても、誰の世話にもならない、自立した生活を選びたいのです。
私が使う飲料水や生活用水は、すべて雨水を利用していますし、電気は自前の発電機でまかない、トイレは自家製で、それを肥料に自給自足をしています。
完全に個として独立した生活を送っているのです。
自分のやるべきことをすべて自分の責任で行う。
そこにこそ、生きる意味があると思っています。
都市にいれば、路上生活をしている私であっても現金収入を手に入れることができます。
さらに、私は別に便利さを追求している生活をしているわけではないですが、やはりそれでも便利さに慣れてしまってはいるのです。
年も年ですから、それをまた戻して、不便な生活をしていくというのもなかなか骨が折れます。
私も、昔はいろいろと考えていました。
30、40代のころは、漁業をやりたいと考えていました。
漁業は、私自身船乗りだった経験もあり、下地があるので、 農業より楽に実現することができると思ったのです。
漁業であれば、自分が生まれ育った東北の田舎でやりたいと思っていました。
と言いつつも、 今では多摩川河川敷で自給自足生活をしているのですが。
以上のようなことから考えると、これから農業をするには、都市近郊であることが求められると思います。
人が集まるところに近ければ、流通コストもかからず数がさばけます。

私が拾ってきた銀杏だって、多摩川でなら簡単に売ることができるのです。
残念なことですが、 田舎の農業は、これからますます衰退していくのではないでしょうか。
私はそんなことを考えています。
さて、それでは私のような生活は果たして許されるのだろうか。
もちろん、簡単に許される行為ではないとわかっています。
私がやっているのは、河川敷の不法占拠であることに違いはありません。
厳密に言うと、河川法に違反しているのです。
河川法では、河川敷に工作物を建てることを禁じています。
それを私は犯しています。
そこで、私は多摩川の管轄をしている国交省に電話で問い合わせてみました。
自分の今の状況は、一体どんな問題があるのかを。
すると、 「あなたは河川法を違反しています」
と言われました。
そこで私は、河川法を違反したら、どういう罰則を受けるのかとさらに聞いてみました。
そうすると、「河川法を違反しても、今のところ特に罰則はない」とのことでした。
私は非常に不思議な気持ちになりました。
法律は違反しているのであるが、罰則はない。
そこで、さらに私は聞いてみました。
「罰則はないかもしれないが、強制撤去のようなことはするのか」と。
答えは意外なものでした。
「現状では、ホームレス支援法で強制的に撤去することが禁じられているため、
撤去することはできない」
またまた私は不思議な気持ちになりました。
担当者によると、 河川法よりもホームレス支援法の方が法的な力があると言うのです。
それは本当なのでしょうか。私は自分が河川敷で暮らす身でありながら、そのことに矛盾を感じてしまいました。
話をまとめると、私が多摩川で生活しているのは、 現状ではやむを得ず、許可をされているわけではないが、 取りあえず処置しないままでいる状態なのだそうです。
それ以外にも、いろいろと話を聞かせてもらいました。
そこには行政の予算の問題も含まれていました。
多摩川で暮らしている路上生活者一人を退去させると、すべての人を退去させないといけない。
多摩川沿いには上流から下流まで、かなりの数の路上生活者がいます。
その人たちすべてを処理しないといけない。
一つの家を撤去するだけでも、人員、トラック、ゴミ処理代などを考えると、かなりの金額になってしまいます。
それが300、400人規模になってしまうと、それだけで億単位のコストがかかってしまうそうです。
さすがに、それはできない。
そんなこともあって、 多摩川での私たちの路上生活は、 微妙な法律、経済的な問題の間で揺れながら、 続けられているのです。
もちろん、公共の場所に勝手に住みやがって、というご意見はわかります。
しかし、人間というものは最低限の生活をする権利があると思うのです。
それなのに、お金と身分証明がないと住むところを借りることができないというのは、それこそ憲法違反ではないかとも思うのです。
人々は、土地をまるで商品のように扱い、切り売りし、利益を得ています。
それは本質的な人間の営みなのでしょうか。
私はそこに疑問を持っています。
それよりも、人間が今気付かなくてはならないことは、 土地を買ったり、売ったりするのではなく、この大地と、もっと仲良く接することではないでしょうか。
それは都市に生きるほとんどの人間が、できていないことです。
しかし、私は都市の中でこそ、この大地と人間のつながりが、今一番必要とされていることだと思うのです。
今回の質問は、本当に的を射た意見だったと思います。
しかし、私があえて都市の中で路上生活をしているというのは、
以上のような理由があるのです。』

フランスのパリの町は、世界中から人が集まっている。なぜなら、人が集まるところには、色々な仕事がある。
そして、寒さや飢えをしのぐことができる。
人が都会に集まるのは、生きていくための衣食住が容易に手に入るからであろう。
北海道のホームレスは、寒い冬には命がけであろう。
しかしながら東京に住むホームレスは、豊かな生活をしているかもしれない。