42歳の女性担任は、全国どこにでもいる普通の教員だと思う。
こどもの深層心理や悩み事を何でも理解できる心理学者やカウンセラーではない。
こどもがネット用語を使って「氏んでいいんですか?」とか、「市ぬ場所がきまっている」と生活ノートに書いた生徒が、学級では笑いながら友だちと遊んでいる姿を見せられたら、冗談としか受け止められない。
それが普通の教師である。
担任に見えるのは、楽しそうに会話している生徒の現実の姿であり、食欲旺盛に給食を食べている姿である。
気になって、生徒に「大丈夫なの?」と聞いたところ、「大丈夫です。心配しないでください」と返事が返ってきたら、その言葉を信じてしまうのが、普通の教師である。
私は、担任教師を擁護しているわけではない。
教師には、結果責任がつきまとうという現実を言っている。
学校でこどもが一人死んでしまうと言うことは、大変なことである。
校長が担任教師一人の責任にしようとした段階で、校長失格であり、処罰対象になる。
こどもが一人死んでいるのに、「私はいじめの事実を知らなかった」では、済まされない。
校長には、校務に司るすべての責任がある。
学校と言うところは、こどもの深層心理を理解し、適切な言葉を投げかけられる優秀な教員ばかりがいると考えるのは、間違っている。
今日のニュースで、「今度は生活ノートを複数の教員で読む」という学校側からの提案があったが、どうして、そのような馬鹿げた結論になるのか不思議である。
こどもが真実を話すのは、担任との人間関係があればのことである。
信頼できない別の教員に知られるとわかっている秘密を、ノートに書くというバカなこどもはいない。
こどもというのは、ギリギリのところで信号を送るものだ。
いじめ側に担任にちくっているとわかったときのその後の陰湿ないじめを最大に警戒している。
42歳の担任に、いじめを解決してくれと頼んでいたのではない。自分の苦しさを少しでもわかってほしいと思っていただけに違いない。そして、彼は担任を好いていたかも知れない。担任の力を、こどもは瞬時に理解するものだ。
残念ながら、こどもに生きる力が備わっていなかったと言うことだ。
そして、親にもこどもを助ける力がなかったことだ。
学校には、どうしようもない「反面教師」がごろごろと存在する。
「あんな人間にはなりたくないね。」と言われる教員がごろごろ存在する。
教科担任に逆らっただけで、「5」の評価の通知表を「1」にして、仕返しした男性教員もいた。しかも中学校3年生の2学期の通知表にである。
また、音楽の女性教員で、「2」ぐらいにならないものかと助言したら、どうしても「1」をつけたいので、つけさせてくれと泣いて頼まれたこともある。彼女の音楽の評価方法は、男子が「1,2,3」で女子が「3,4,5」であった。音楽の評価に性差が存在した。
逆もいる。全員に「4,5」しかつけない音楽の女子教員もいた。内申書で10段階の評定で1がついた生徒の通知表を確認したら4であったので、不思議に思い学年全体の音楽の通知表を確認したら、その事実がわかった。もちろん校長の承認印が押されていたので、フリーパスであったようだ。
そのような現実の学校現場を、どんなに批判しても、何の問題の解決にもならない。
公務員というものは、たたけばたたくほど、働かなくなるし、逃げ方がうまくなるものだ。
今回の事件では、学校の問題だけでなく、夫婦間のあり方、学校と親との関係、学校の教員同士の連携の問題等々、難しい問題がたくさんあることがわかる。
いじめが多発した時代があった。
文科省は、詰め込み授業が問題があると、ゆとり教育を推進した。
30年間かけて、教育課程を変えた。
そして、数年前にようやく完成したゆとり教育が、根底から変えられた。
30年間で時代が変わったのである。
そして、現在は、詰め込み式の教育になった。
文科省が考えたのは、こどもの教育ではない。
アメリカから押しつけられた「週休二日制」の労働時間の短縮が本音であった。
土曜日の3時間の授業時数を減らすために、30年の月日をかけたのである。
文科省の役人や経済界のトップの考えることは、全員のこども達の学力アップではない。
優秀で安く使える労働力である。
そのことしか考えていない。
こどもの安全は、親が考えないといけないことである。
だれも責任を持って守ってはくれない社会である。