今、体罰論が盛んだが、「良い」か「悪い」かという議論は、ナンセンスである。
そもそも「体罰」というのは学校教育法第11条に、「体罰は、いかなる 場合においても行ってはならない。」と書いてある。
つまり、法律で禁じられている。
体罰をすれば、それは、刑法で言う「暴行罪」、「傷害罪」である。
怪我をさせなければ「暴行罪」、怪我をさせれば「傷害罪」だ。
先の高校教師の「体罰」は、口の中を切って怪我をさせたので「傷害罪」が成立し、「十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」と言うことになろう。
もっとも、「傷害の結果」の度合いが少ないので、少しは罪が軽くなるだろうが、「犯罪」であることには違いない。
教育をするのに、教師が犯罪を犯すことは、「良い」か「悪い」かという質問にすれば、その質問が如何にナンセンスかと言うことがわかる。
「うちのガキは、出来が悪いので、家でもぶっとばしている。先生も、悪いことをしたらうちのガキをぶっとばして下さい。おれは、世間の親とは違うから。まったく最近の親たちは、子供に甘い。」
そんなことを言う親がいたりする。
「教師に、法律を犯してまでも、子供を正して、面倒を見なさい。」と言うことか。
話をもどして、それでは、なぜ運動部の教師は、体罰をするのか。
「気合い」であり、「威嚇」であり、「権威」であろう。
「気合い」は猪木選手が行っている儀式である。
「気合いをお願いします。」と選手が監督に言う。
テレビでも見たことがある。
柔道選手が、監督に両手でほほをバンと叩かれる。あるいはおしりをバンと叩かれる行為だ。
「威嚇」は「脅し」である。
気の弱い選手に、あたまを小突いたりして、より強い運動をやらせたりする。
「苦しさから逃げるな」というのを「痛み」で伝える。
しかし、そのような気の弱い選手は、試合では必ず挫折する。
「権威」とは、監督の自己満足である。
俺は、おまえ達からすると「神に近い存在」であるという表現。
無抵抗な選手に「びんた」や「げんこつ」をして、「はい」と言う返事を言わせる。
監督よりも賢い選手は、そのような神の儀式を、心の中で常に軽蔑しているだろう。
「このバカ監督、どうにかならないか」と思っている。
部室で仲間が叩かれている時の回数をみんなで数えていた。
あのバレー部の監督がこれに当たる。
「選手達からは、あのバカ監督、いつか教育委員会に訴えてやる。」と思って、回数を記録していた。
あまり意味のない「体罰」をなぜ、愚かな指導者達は、選択してしまうのであろうか。
それは、「即効性」である。
体罰の魅力は、「即効性にある。」
言葉で何回言っても、理解力のない選手は、監督の言うとおりの行動がとれない。
しかし、体罰で「恐怖と痛み」による指導をする。
そうすると一回で、選手は監督の言うとおりの行動をする。
そのことが、未熟なレベルの低い監督にとっては、魔法のような指導技術だと思いこんでしまう。
いったん監督が「体罰の即効性」を信じてしまうと、なかなかそこから抜け出せない。
あのバレー部監督が、過去に「3ヶ月の停職処分」を受けたのにもかかわらず、なんども体罰を繰り返していたのが、それを物語る。
しかし、監督が体罰から抜け出せる場面がある。
それは、全国大会の決勝で優勝を何度か経験することだ。
選手におけるプレッシャーは、監督の体罰とは比較にならない。
桑田選手が「体罰はなんの意味もない。」といった言葉は重い。
三流選手であった橋下市長が、最初は体罰を受けたことを、肯定していた場面があったが、桑田選手の記事を読んで、すぐに撤回した。
世の中にいる全国で1,2を争う指導者は、体罰の無意味さを、誰よりも知っていると思う。
運動部の指導に限らず、指導は、「狭き門より入れ」と言うことである。
即効的な手段ではなく、回り道してでも、時間をかけて、あきらめず何度も何度も繰り返し指導すべきである。
昔、私は体罰教師であった。