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のじさん

Author:のじさん
200坪の菜園に100種類の野菜を育てる。畑の一画に秘密基地を作ってにわとりや金魚、メダカを育てている。冬には薪ストーブを燃やして暖を取り、コーヒーを飲む。都会に近い所で田舎風の暮らしを求めて、定年後の余暇時間を楽しんでいる。そんなライフスタイルの情報を発信していきます。

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「なみだで洗われたまなこはきよらかでふかい」あいだみつを

9月14日(土曜日)
 
「なみだで洗われたまなこはきよらかでふかい」あいだみつを
 

若いときの涙は、いつも悔し涙であった。
自分自身の未熟さと相手の理不尽さに、心が怒りに耐えきれなくなって、どくどくした涙を流した。
 
 
 
そして、阿修羅のごとく復讐の怨念をエネルギーと変えて、自己を鍛え、技を磨いた。
 
 
 
時は流れ、年老いた自分には、仏の命が宿ったようだ。
涙腺は弱くなり、映画を見ては涙し、新婚さんいらっしゃいのバラエティ番組でも涙する。
 
しかし、わたしの涙は、まなこを洗うほどのものではなく、ふかさもきよらかさもない。
 
ただただ、涙腺がゆるんだだけのような気がする。
 
 
 
 
きっと、もともと心のきれいなひとの涙で洗われたまなこが、綺麗で深いのだろう。
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「自分が自分にならないで だれが自分になる」あいだみつを

9月13日(土曜日)
 
「自分が自分にならないで だれが自分になる」あいだみつを
 
ありのままの姿の自分。
それが本当の自分。
 
夢や目標を手に入れても、自分自身はかわらない。
お金をたくさん手に入れても、喜んでいる自分がいるだけ。
 
反対に、貧乏になってしまっても、そこには貧乏な自分がいるだけ。
 
お金持ちになった自分も貧乏になった自分も、同じ自分。
 
幸せを感じる自分も不幸せを感じる自分も、やっぱり同じ自分。
 
人と比べても、他人にはなれない。
 
やっぱり、自分は自分。
 
世界にたった一つだけの自分といういのち。
ありのままの姿の自分が、本当の自分。
 
 
「自分が自分にならないで だれが自分になる」あいだみつを

「名もない草も実をつける いのちいっぱいの花をさかせて」あいだみつを

9月12日)(木曜日)
 
「名もない草も実をつける いのちいっぱいの花をさかせて」あいだみつを
 

『花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争う事もしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
 
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
 
そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
 
困ったように笑いながら
ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
 
名前も知らなかったけれど
の日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
 
そうさ 僕らも
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
 
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1 にならなくてもいい
もともと特別な Only one』
 
 
 
 
 
 
蓮舫「2位じゃダメなんでしょうか?」 スパコン 事業仕分け
 


 
 
そう、産業の世界、経済の世界では、1位でなければ勝ち残れない。
歌の世界や詩の世界ではない。
 
現実の世界では、戦いに勝ち残らないと、生き延びられない。
 
蓮舫さん、2位じゃ選挙、落ちちゃうでしょう。ね。」
 
 
でもこちらの世界では、生き延びれると思うよ。
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クラリオンガール「蓮舫さん」

「一番わかっているようで一番わからぬこの自分」あいだみつを

9月11日(水曜日)
 
「一番わかっているようで一番わからぬこの自分」あいだみつを
 
 
「われ思う、故に我あり」デカルト
 
『世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、今このことを考えている、「自分自身」のみである。』
 
『「私」を探してみると、何処にも「これが私だ」と断言できる「私」なんて存在しません。
 鼻が私でしょうか。
 眼が私でしょうか。
それら全てが私でしょうか。
 
「私」なんて何処にもいないんです。
でも、私は、確かに存在します。』
 
 
『心を何にたとえよう  のようなこの心  心を何にたとえよう  空を舞うよな悲しさを
心を何にたとえよう  花のような この心  心を何にたとえよう  雨に打たれる 切なさを
心を何に たとえよう  一人 道行く この心  心を何に たとえよう  一人ぼっちの 寂しさを』ゲド戦記
 
 
ひとのこころは、ころころ変わる。
それは、自分も同じ。
 
さっきまで、あんなに喜んでいたのに、幸せ感でいっぱいだったのに。
 
今の自分は、どうしてこんなに、落ち込んでいるのだろう。
 
さっきまでの自分は、どこへ行ってしまったのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
「一番わかっているようで一番わからぬこの自分」あいだみつを
 

「トマトがトマトであるかぎりそれはほんもの トマトをメロンに見せようとするからにせものとなる」あいだみつを

9月10日(火曜日)
 
「トマトがトマトであるかぎりそれはほんもの トマトをメロンに見せようとするからにせものとなる」あいだみつを
 
 
 

桜梅桃李
 
「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」日蓮
 
『いずれも独自の美しい花を咲かせることから、桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李は李の特徴を改めることなく、生かしていくとの意味であるという。』
 
 
ひとは、だれでも良いところを見せようと無理をしてしまう。
自分には無いはずなのに、誰かの言葉を引用して、その人のレベルになった気でいる。
 
 
結婚披露宴での祝辞を頼まれて、なにか心に残るいい話がないか、あれこれ考える。
そして、どきどきしながら披露宴当日を迎える。
 
乾杯が終わってからの話は誰も聞いていない。
披露宴が終わった帰り道、知り合いが「今日の話、長かったわねえ」と一言。
何を話したかではなく、短くどうまとめたかが評価される。
 
 
 
自分が物知りでもなく、また変人でもない、ごく普通の人間であることを自覚すると、心が落ち着く。
それは、気負いから解放され、自由人となった本来の自分の姿を表現できるからである。
 
 
 
メロンが決して特別な果物ではなく、また、トマトが価値の低い野菜でもない。
トマトは、トマトで美しく、美味しい野菜である。
トマトである自分が、メロンのように高級ぶることも必要ないし、ごく普通の野菜の一つであることを自覚したときに、新しい世界観となる。
 
 
 
トマトがトマトであるかぎりそれはほんもの トマトをメロンに見せようとするからにせものとなる」あいだみつを
 
 

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