9月10日(火曜日)
「トマトがトマトであるかぎりそれはほんもの トマトをメロンに見せようとするからにせものとなる」あいだみつを

桜梅桃李
「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」日蓮
『いずれも独自の美しい花を咲かせることから、桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李は李の特徴を改めることなく、生かしていくとの意味であるという。』
ひとは、だれでも良いところを見せようと無理をしてしまう。
自分には無いはずなのに、誰かの言葉を引用して、その人のレベルになった気でいる。
結婚披露宴での祝辞を頼まれて、なにか心に残るいい話がないか、あれこれ考える。
そして、どきどきしながら披露宴当日を迎える。
乾杯が終わってからの話は誰も聞いていない。
披露宴が終わった帰り道、知り合いが「今日の話、長かったわねえ」と一言。
何を話したかではなく、短くどうまとめたかが評価される。
自分が物知りでもなく、また変人でもない、ごく普通の人間であることを自覚すると、心が落ち着く。
それは、気負いから解放され、自由人となった本来の自分の姿を表現できるからである。
メロンが決して特別な果物ではなく、また、トマトが価値の低い野菜でもない。
トマトは、トマトで美しく、美味しい野菜である。
トマトである自分が、メロンのように高級ぶることも必要ないし、ごく普通の野菜の一つであることを自覚したときに、新しい世界観となる。
トマトがトマトであるかぎりそれはほんもの トマトをメロンに見せようとするからにせものとなる」あいだみつを