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のじさん

Author:のじさん
200坪の菜園に100種類の野菜を育てる。畑の一画に秘密基地を作ってにわとりや金魚、メダカを育てている。冬には薪ストーブを燃やして暖を取り、コーヒーを飲む。都会に近い所で田舎風の暮らしを求めて、定年後の余暇時間を楽しんでいる。そんなライフスタイルの情報を発信していきます。

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みそかんぷら芋(かんぷら味噌)


『懐かしい味。ちっちゃなじゃがいも(ゴルフボールより小さいやつ)をお店で見つけたら必ず作ります。かんぷら芋・・・方言なのかな? 



材料   (2人分) 

 ミニじゃがいも・一口大のもの) 500gぐらい
 油 揚げ物用
 味噌 1/2カップ
 ※ざらめ 1/2カップ
 砂糖 大さじ2
 みりん 大さじ2
 酒 大さじ2

■ ざらめの代わりに砂糖で代用可。 

 

1 小いもは洗い水気を切って中まで火が通るぐらい油で揚げる。又は、少しの油で揚げ焼き。

2 味噌以下の材料を中華鍋に入れザラメを溶かし、甘味噌を作る。しょっぱかったら砂糖を、甘かったら味噌を加える。


3 ①のじゃがいもを弱火の鍋にうつしかえ、②の味噌を入れ絡めて出来上がり。

4 ※ざらめはなくても大丈夫です。そのときは砂糖で調整してください。。

5 ※余った味噌だれはゴハンに乗せて食べてもおいしいよ♪


コツ・ポイント
甘みそを焦がさないように。

このレシピの生い立ち
ばあちゃんがよく作ってくれてました。子供の頃オヤツとかに食べてたな。箸やすめにもいいです。とにかく新じゃがの時期が一番おいしい。』


「秘密のケンミンSHOW」を見ていたら、どこかで聞いたような懐かしい響きの言葉をみみにした。

「かんぷら」と言う言葉である。

※『 福島県の方言である「かんぷら」の語源は、オランダ語で「馬鈴薯(ばれいしょ)」を指す「 aardappel(アールダップル)」だと言われています。 「馬鈴薯」と「ジャガイモ」は言い方 が異なるだけで同じもの』

私の生まれは、福島県の隣の茨城県、しかも福島県に近い所の高萩市。
ジャガイモと言う言葉を覚える前に、「かんぷら芋」と言う言葉を使っていた。


家の畑でジャガイモを作っていた。

必ず小さなジャガイモが出来たが、捨てずにフライパンで油と味噌で絡めた簡単な調理方法で、おやつとして食べていた。

福島のように、砂糖を使うことはなかった。

昔は砂糖は高価であったため、よほどのことが出来ます。ない限り調理で使うことはなかった。
その代わり「サッカリン」などと言う人工甘味料を使っていた。発ガン性があるということで、市場から消えたが、現在では発癌性物質リストから削除されている。

大人になって、家庭菜園で毎年ジャガイモを作っているが、小さなジャガイモは、毎年捨ててしまっている。
その理由は、調理人の妻が「味噌かんぷら」の味を知らないし、ジャガイモの皮は食べられない物と理解しているからだった。

それが、「秘密のケンミンSHOW」を見ていた妻が「美味しそう!食べてみたい。レシピ出して置いて!』と、興味を持ったようだ。

しかし、今年の小さなジャガイモは、すでに捨ててしまっている。
秋じゃがの種を蒔いたが、もう3週間が過ぎるのに、芽が出てこない。
小さなジャガイモを種芋として使ったが、どうしたものか。


むかし、新ジャガイモの皮を剥く「皮むき棒」なるものがあった。
それを使えば、簡単に皮が剥けた。
使い方は、簡単で桶の中にジャガイモと水を入れて、皮むき棒でごろごろと左右に回すと、新じゃがの皮が剥けてつるつるになる。

里芋の皮もその棒で剥いた記憶がある。

簡易のものは、すぐ作れる。





「味噌かんぷら芋」を食べられるのは、来年になってしまうのだろうか?




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30年前に亡くなった父の記事に出会った。



『啓誌熟』より転載
もっと太鼓の“輪”を広げよう
                        2015/01/1512:00 1 0

■太鼓の打ち方指導を通して地域のコミュニティーづくりに貢献する

野島 虎雄氏
(69歳)

『正月の風物詩といえば、コマ回しやたこ揚げ、羽根つきといろいろあるが、しし舞いなどもいまでは見かけなくなったが縁起物として親しまれている。しし舞いにつきものなのが、笛に太鼓。しし舞いの太鼓ではないが高萩市上手綱に住む野島虎雄さん(六九)は、10年以上も各地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。


たつご子供会の「市民ばやし」演奏



野島さんは57年4月に、市内松岡にある旧水戸藩家老中山備前守の氏神さまである丹生神社(たんしょう)に伝わっていたササラが復活された際、ササラ舞いの振り付け、太鼓の打法の指導にあたった人だ。


丹生神社(三神社)の棒ささら




太鼓と野島さんの縁は、祖父の繁次さん※が、山鹿流太鼓の師範だったことから。山鹿流といえば、テレビ、舞台などで必ず暮れになると放映・上演される「忠臣蔵」のクライマックス、吉良邸討ち入りの時、大石内蔵助が打つ太鼓、あれが山鹿流の陣太鼓。

山鹿流の陣太鼓



「祖父が太鼓を教えていた関係で“門前の小僧、習わぬ経”の例えではありませんが、見よう見まねで覚えたんです。とにかく 当時はお弟子さんも多く、1日中太鼓の音が響いていたんですよ。いやでも覚えてしまいます」

戦後は一時、祖母さんのいる柴田サーカスにいたこともあるというだけに、手品・曲芸はお手のもの。その器用さを見込まれてか、10数年来、地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。下級の子供たちには神輿囃子・矢車太鼓・昇殿神楽※の3種を指導した。





子供会の4年生以上になると、この3種の太鼓打法をマスターすることになる。インスタントではなかなか覚えることができない、実演伝承なので、難しい面もたくさんある。ただ、太鼓の良さは、野球などではレギュラーにならなければ試合に出場できないが、太鼓はみんながレギュラー。だれもが一緒になって打つことが出来る。

58年の11月には、親と子、祖父母を加えた三世代の集いで、日ごろ鍛練した太鼓を披露、大好評だった。これだけではなく、7年前から太鼓を通じて老人クラブ、子供会、そして親たちというコミュニティーの輪が広がっている。その一番の功労者は野島さん。

「高萩だけでなく、もっと全国の人たちにも太鼓打法を教えてあげたい」
と野島さんの夢は大きい。
※改訂
第134号 茨 城 朝 日 昭和59年(1984)1月1日・4日(2)


■上手綱に伝わる 神輿囃子の由来

文久元年4月19日、藩主中山備前守より朝香神社に神輿が奉納された。それを記念すべく祭式が行われ、催されたのが、神輿御神楽太鼓と称する御囃子である。


茨城県高萩市上手綱 朝香神社




その御囃子とは、慶長8年徳川家康公が将軍の位を賜った時、天海僧上が催したという御囃子があるが、その連係だという。

その御囃子を、藩の太鼓師二代目にあたる白土円覚なる人物が、神前にて演じたのが始まりで、以来、祝いとして若者たちが神輿を担ぎ部落を練り歩くことが、明治7年のころまで続いた。

そのころ、太鼓師三代目にあたる小和田の白土市郎次氏が、数多くの弟子にその御囃子を教育され、他町村にまで広めたが、明治14年衰退の一途をたどり、その後、減衰していったという。

昭和52年7月、高萩市一円に御神輿祭が開催されることになり、大正13年ごろに太鼓師四代目より伝承されていた物を、野島虎雄氏が教授。下組 北組子供会会員に指導していった。

以後、祭礼に執行し、毎年その祭日に行うようになったという。』




父は72才の時に亡くなった。
私が32オの時であつた。
この記事は父が亡くなる3年前のものだ。

私は父が太鼓をたたく姿を見たことがなかった。

私が生まれて2ヶ月目の時に、母は脳溢血で倒れた。

その時まで父親は定職についていなかった。
今風に言えば、芸人であった。
太鼓や芸は、その時に封印したのかも知れない。



今では考えられない昭和時代の常識

2014年12月31日 7時50分
マイナビウーマン  
 
『今では考えられない昭和時代の常識1位「運動中に水を飲んではいけない」
年号が平成へと変わってから早26年――。世の中はなんと目まぐるしく変化したことか。かつては常識と思われていたことも、いつのまにか非常識といわれるように……。そこで今回は、今では考えられない昭和時代の常識について読者461名に聞いてみました。
 
Q.今では考えられない昭和時代の常識を教えてください(複数回答)

1位 運動中に水を飲んではいけない 28.9%
2位 電車のトイレは線路上に垂れ流し 22.8%
3位 土曜日は半ドン(午前中のみ会社や学校へ行く) 21.5%
4位 1ドルは360円 20.0%
5位 テレビは叩けば直る 16.5%
 
●総評

1位は「運動中に水を飲んではいけない」でした。今でこそ当たり前となっていますが、昔は水を飲まないのが常識。なぜなら、「運動中に水を飲むとバテる」と本気で信じられていたからです。なかには、理屈抜きで精神論や根性論をふりかざす指導者もいたようですが……。
スポーツ医科学が進歩し、こんなことをいう人はほとんど見られなくなりました。

 
2位は「電車のトイレは線路上に垂れ流し」です。筆者の幼少期の話ですが、列車の便器の中を覗くと本当に線路が見えました。「開放式便所」というそうです。走行中に自然飛散させるため、停車中は使用禁止。沿線住民からの苦情も多く、「黄害」と呼ばれていたそう。
 


 
もちろん今はタンク式トイレですので、安心してご利用ください。
 
3位は「土曜日は半ドン(午前中のみ会社や学校へ行く)」でした。「半ドン」という言葉も、もう聞かなくなりましたね。オランダ語で休日を意味する「ドンタク(zondag)」が半分ということで「半分ドンタク」、略して「半ドン」になったらしいです。
公立小中学校が完全週休2日制になったのは2002年度からですから、懐かしいと思う人も多いでしょう。
 
4位「1ドルは360円」は、固定相場制だった1949年から71年までの話。舶来品は超高級でした。
 
5位「テレビは叩けば直る」は、冗談のようですが本当です。当時のテレビの故障は経年劣化やほこりによる接触不良が主な原因だったので、衝撃を与えると一時的に改善されたんですね。
 

 
 
こうしてみると、昭和時代がはるか昔のように感じられるかもしれません。でも、ほんの数十年前まで、これが常識だったんですよ。』
 
 
 
 
 
 
海外旅行に行った時のお土産は、関税のかかった洋酒が主流だった。
特にブランデーのナポレオンやウイスキーのジョニクロなどが、好まれた。
 
5000円で買ったナポレオンVSOPは、日本で買えば2万5千円であったし、ジョニクロは2000円で買え、日本では1万円が相場だった。
 
 


 
 
一人3本まで買えたので、妻と二人分の6本を買ってきて、世話になっている上司などにプレゼントすると、とても喜ばれて、必ずサイドボードなどに飾って、飲むことはなかった。
 
とにかく、外国旅行に行けば、お土産代が高くつく時代だった。
 
 
最近では、お土産を買ってくる相手もいないので、小遣いは5万円も持っていけば、余ってしまう。中国に行った時には、3万円ぐらいしか使わなかった。
 
 
 
 
 
 

海外在住の日本人にスポット当てた番組が増えたワケ

好きな番組がある。
『世界の村で発見!こんなところに日本人』である。
 
 
私の妻は、外国旅行が好きである。
結婚したときから、お金を貯めて、外国旅行をしようと約束させられていた。
子どもの頃「兼高かおる世界の旅」を見て、海外にあこがれたようである。
 

 
私は、どちらかというと、景色を眺めたり、お城を眺めたりするのは、さほど好きではない。
 
 
むしろ、千原せいじのアフリカの旅のような生活感のあるものがおもしろい。たった一人で現地の生活にとけ込み生きている日本人に会ってみたい。自分にはできないが、そこでの苦労話や感動したことを聞きたいし、できればそこで何日か過ごしたい。
 


 
 
私が今までに感動したことは、妻の友達の友達がサイパンに住んでいる日本人に会いに行ったときだ。45日の旅行だったが、ずっとその方が経営しているお土産屋さんで、過ごした。どうして、そこに住むことになったのか、結婚して、子どもは何をやっているのか。興味津々であった。そして、その方の知り合いの親日家のお金持ちの家のパーティーに招待された体験も楽しかった。
 

 
 

 
景色を見たり、町並みを見たりすることも感動はする。特にイタリアに行ったときには、歴史の重さを感じ、圧倒された。
しかし、私は、人間との関わり合いが好きであり、楽しい。
 

 
妻とは、まったく楽しみ方が違う。
 
中国に行ったときには、団体行動から外れて、露天に並ぶお土産屋さんで値下げ交渉して、珍しいものを手に入れたりすることが楽しかった。
ちょっぴり緊張感があり、だまされるかも知れないと言うリスクがたまらない。
しかし、妻は私の手を引っ張って、ツアーの列に引き戻そうとする。
 
 

 
千原せいじの人見知りしないキャラがまた番組のおもしろさを引き出していると思う。
相手のふところに何のためらいもなく、まるで旧知の友達のような気楽さである。
 
日本人の感覚そのもので、相手にものを言い、相手の立場に立たないところがまたおもしろい。
気を遣わないかかわり方が何とも楽しい。
 
 
 
 
『同種番組が増えた理由に「分かりやすさ」を挙げる。
「海外の珍しい風景を見てびっくり、話を聞いてみてびっくり。
苦労話に共感し、別れでジンときて…。家族で安心してみられる」』
 
 
 
 
 
 
 

のじさんの昭和史 最終回

昭和 61 年 1986 年 中曽根康弘
バブル景気(~1991) 

東京中野富士見中でいじめ自殺事件中野・富士見中学いじめ自殺事件
『東京中野の富士見中学2年の鹿川裕史君(13歳)が首を吊って自殺しているのが発見された。遺書が残されており、彼の自殺がいじめによるものだと判明した。いじめは日常的に行われており、”葬式ごっこ”なるいじめには教師も参加していた。』

男女雇用機会均等法施行 

ソ連チェルノブイリ原発事故


三原山噴火、全島民に避難命令 

地価狂乱、田園調布では1年で97%上昇
田園調布の土地が一坪1200万円とか言われた。
 
 「東京の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買える」
と言われたほどだった。

三菱地所 がニューヨークの ロックフェラー・センター を2千億円で購入し、安田火災(当時) が57億円でゴッホの 「ひまわり」 を買った話はよく知られている。



 
ロックフェラー・センター        ゴッホの 「ひまわり」
 
 
 
昭和 62 年 1987 年 竹下 登
 

国鉄分割民営開始 国鉄が分割、民営化される
NTT株が上場1株160万円の初値がつく
『NTT株式の初値は160万円をつけ(昭和62年2月10日)、その3ヶ月後には上場来最高値の312万円を付けたが、以後は下落の一途を辿った。』
地上げ等により都心の小学校で新入生ゼロの異常事態
 

株価乱高下、NY株式市場でブラックマンデー
 
ブラックマンデーは、1987年10月19日に起こった、史上最大規模の世界的株価大暴落。ニューヨーク株式市場の暴落を発端に世界同時株安となった。暗黒の月曜日ともいう。508ドルの下落(下落率22.6%)

ダウ平均株価 (1987-06-19~1988-01-19)
 
ニューヨーク市場に次いで東京市場、ロンドン市場、フランクフルト市場などでも株価が暴落した(翌日の東京市場の日経平均株価は3836円安となり、戦後最大の下落率14.9%を記録)。
 

ブラックマンデーには明確な原因は見当たらず、たまたま大暴落しただけだ』という人もいる。
そして、現在のアベノミクスで湧く日本株式市場の状態がこのブラック・マンデーに似ていると警戒する人もいる。
 
昭和 63 年 1988 年 竹下 登

リクルート疑惑事件 


青函トンネル
 


瀬戸大橋開通


子育てを巡り「アグネス論争」
『少年ジャンプ』1500万部を突破
 

昭和 64 年 1989 年 宇野宗佑

昭和天皇崩御(89)

「平成」と改元 
 


吉野ヶ里遺跡発掘

(平成元年) 手塚治虫、美空ひばり死去
 



 
 
 
ベルリンの壁が崩壊する

 
 
 
バブル景気崩壊・・・東京株式相場大暴落
 
東京証券取引所での日経平均株価の変動(縦軸は円、横軸は西暦年)  
 
 
平成2年(1990年)2月から3月にかけて、東京証券市場 で 株価が大暴落 しました。日本の バブル経済の崩壊 が始まった。
 
 実体経済がさほどでもないのに、先を過剰に好感して景気が膨らみ過ぎる現象を言い、やがてはじけて消える。
 日本での バブル景気 は、昭和60年(1985年)ごろから始まり、平成2年(1990年)年初が絶頂期だった。
土地や株の価格が驚くような価格に高騰した。
    
 
 
流行語年表(昭和44-63年)
 
昭和44年 情報化社会 やっだぜベービー ニャロメー アッと驚くタメごロー
昭和45年 日本万国博覧会開催 スキンシップ しらける おぬしやるな ウーマンリブ
昭和46年 ドルショック アンノン族 ニアミス しらけ
昭和47年 お客様は神様です 未婚の母 よく言うね バイコロジー 総括
昭和48年 省エネ ちょっとだけよ もの不足 エアロビクス
昭和49年 狂乱物価 超能力 便乗値上げ 巨人は永久に不滅です ベルばら
昭和50年 アスレチック 赤ヘル軍団 あんたあの娘のなんなのさ おちこぼれ
昭和51年 中流階級 4LDK コマネチ 記憶にございません 偏差値
昭和52年 よっしゃよっしゃ たたりじゃー 話がピーマンに
昭和53年 円高 カラオケブーム ぶるさがり健康法 窓際族 嫌煙権
昭和54年 ワンパターン ダさい ギャル なうい 熟年 省エネルック
昭和55年 ゼロ成長 カラスの勝手でしょ とらばーゆ ぶりっ子 
昭和56年 オフィス・オートメーション なめんなよ 粗大ごみ ロリコン
昭和57年 逆噴射 シンドローム(症候群) ネクラ/ネアカ 森林浴 気配り
昭和58年 おしんシンドローム ニャンニャン 軽薄短小 いいとも
昭和59年 まる金・まるび イッキイッキ ピーターパン症候群 くれない族
昭和60年 新人類 実年 禁煙パイポ ダッチロール
昭和61年 レトロ やるっきゃない 激辛 グルメ 朝シャン 家庭内離婚
昭和62年 マルサの女 ゴクミ 便利屋 超伝導 地上げ屋 バブル
昭和63年 おばたりあん しょうゆ顔・ソース顔 うるうる ドーピング まる優廃止

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